カジノロワイヤルの手帖

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いたいけ過ぎて大変な『炎の少女チャーリー』

炎の少女チャーリー [VHS]
監督:マーク・L・レスター。出演:ドリュー・バリモア。原作はスティーブン・キングのベストセラー「ファイアスターター」。バイト感覚で新薬実験を受けた男女二人が薬の影響でなんと超能力を身につけてしまいます。さらに二人の間に生まれた娘は何でもかんでも念じるだけで発火させてしまうパイロキネシス能力者でした。これを憂慮した政府関係者は貴重な実験材料を回収するためこのキネシス親子に追い込みをかけるのですが、そこはそれ新薬実験の際に大量の死者が出たのをしれっとスッとぼけておられる方々ですので捕まったら最後どうなるかは火を見るより明らかです。ていうか母ちゃんの方はすでに殺されてしまった!かくて父ちゃん(デビッド・キース)と娘チャーリー(ドリュー・バリモア)の逃避行がはじまるのでした…。


くう〜燃えるぅ!燃えるでしょう!どうですかお客さん!なんというか、心のなかの中学二年生部分がビンビンに刺激される心持ちです。さらに主演が当時『E.T』で世界的にブレイクしたカワイイ盛りのドリュー・バリモア(当時9歳)、共演にジョージ・C・スコット、マーティン・シーン、アート・カーニー、ルイーズ・フレッチャーという目の潰れそうな豪華キャストですからこれはもうちょう観たいわー観る前から傑作の匂いがするわー。書いていて自分でもうざいです。


このように名作と謳われる可能性は大ありの前提にも関わらず、いま現在この映画の評価が日本でいまひとつビッとしないのは、ひとえに1984年当時でも反応に困る邦題のセンスと、どうにも締まらない演出のせいと思われます。特に邦題の罪は深い。どこの大映ドラマかと。監督はマーク・L・レスターで、あまり聞かない名前だなあと思って調べたらフィルモグラフィに『処刑教室』『コマンドー』『リトルトーキョー殺人課』などが並んでいて「ああ…」と視線が遠方へズームアウトしました。いや『コマンドー』は好きですけどね!あと見せ場である発火シーンのチープさもこの映画の低評価要因になっているご様子で悲しいです。このように本邦における『炎の少女チャーリー』の評価は悲しみの果てにあるのですが、しかしあの燃え燃えの原作なのだからよほどのことがなければ観れるじゃろう、と思って観ました。ずいぶん前にVHSで録画したやつですが、この年代の映画はVHSで観ると独特の雰囲気が生まれて趣深いです。


感想:ドリューちゃんを泣かすやつは滅びよ!


いやっもうっこの映画のドリューちゃんがマジ天使過ぎて泣けます。当時9歳ですから絶対的なカワイイ盛り。いたいけ!いたいけ!とつい意味もなく連呼してしまう。このカワイイのが笑ったり怒ったり泣いたり無邪気にふるまうさまと、発火能力を炸裂させて汗だくで力みかえっているさまと、どちらも非常にいたいけで思わず自分の中に父性愛のめばえを自覚してしまう。劇中ドリューちゃんに近づく敵役のジョージ・C・スコットやマーティン・シーンが軒並み変質者に見えて憎しみを覚えてしまう。ついでにいうとマーティン・シーンは『白い家の少女』でも子役時代のジョディ・フォスターに対する前科があるために、こいつとドリューちゃんが部屋でふたりきりになるシーンではつい妙なサスペンスが。しかしこれほどのいたいけさを画面に炸裂させておきながら、実生活のドリューちゃんはすでにこの時点で酒もクスリも覚えていたといいますから恐ろしい。ハリウッドの子役界は魔窟です。


彼女が操る発火能力は、人間を瞬時に火だるまにし、飛んでくる銃弾を蒸発させ、火の玉をバンバン飛ばして破壊の限りを尽くすという凄まじいものですが、この能力は放っておくと彼女の感情次第でダダ漏れになり近づく人間が全員火柱になってしまうという厄介なもので、それを制御するために父ちゃん母ちゃんは一計を案じます。そもそも生まれつき使える能力のため、分別のない赤子時代は腹が減って泣くだけで近くにあった熊のぬいぐるみが火だるまに、という危なさですから一計を案じないと危険危険。というわけで両親がとった手段とは、トイレトレーニングと同じように超能力の制御を「しつけ」るというものでした。


つまり「うんこを漏らすのは良くないこと」「人前でしっこするのは恥ずかしいこと」ということと同じ感覚で、「人を燃やすことは悪いこと」「人に能力を見せるのは恥ずかしいこと」という教えを徹底し、罪悪感と羞恥心で彼女の能力にキャップをはめるという方法です。これがこの物語の重要なポイントで、これがためにどうしても彼女は能力を使う際に抵抗を感じざるを得ない。例えて言うなら、彼女にとって人前で能力を使うということは、人前で失禁することも同然であると。これがひいては、追われている時も敵に対して遠慮なくバンバン火を放つことができず、どうしても追い込まれてギリギリのところでしか能力を出せないという作劇上の葛藤の礎となる。さらに敷衍して、クライマックスでブチ切れた彼女が溜まりに溜まった怒りを解放するカタルシスの強力な裏打ちにもなる。「これまではイケナイコトだから抑えてたけど、あんたたち悪いヤツらには罪悪感なんて感じないわ!」こうして彼女は葛藤の果てに能力を本能のままに大開放。火の玉をバンバン発射しながらコーコツとなるのでした。これを踏まえて鑑賞すると、クライマックスのドリューちゃんのいたいけな表情が超絶に燃ゆる&萌ゆるなのでオススメというか、こういうこと書いて大丈夫か俺。


しかしこの映画のなってないところは、こう言った点の描写がおざなりなことで…。原作ではきっちり書かれているこの葛藤がいまいち描ききれていないために、ドリューちゃんがなぜ能力を出し惜しむのかの説得力が薄いのです。これはいかにも惜しい。そこが一番大事なとこだろう!違うかね!ともあれ演出次第ではいくらでも傑作になり得るであろう素材だけに、この惜しい感は半端ではないですが、超能力テーマの映画を語るに当たっては絶対に外せないネタなので SFファンタジーファンの皆様はぜひ嗜んでいただきたいと思います。イマイチと言われる特撮シーンも、今観るとそんなにひどくない。というか意外とイイよ!原作とセットでぜひ!


余談。荒木飛呂彦の名作コミック「バオー来訪者」ですが、実は「ファイアスターター」とヤバいくらい似ておりまして、シチュエーション、展開はおろか一部セリフまでソックリなので冷や汗ものです。でも好き。ふふ。


ファイアスターター (上) (新潮文庫)

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ファイアスターター (下) (新潮文庫)

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バオー来訪者 (集英社文庫―コミック版)

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