カジノロワイヤルの手帖

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濃厚な80年代み『ときめきに死す』(1983)

ときめきに死す Blu-ray

 

 

監督:森田芳光。出演:沢田研二樋口可南子杉浦直樹。ある新興宗教組織に雇われ、北海道の田舎の一軒家を守る医者(杉浦直樹)。そこに一人のテロリスト(沢田研二)が送り込まれてきます。医者の任務とは、このテロリストの生活を全面的に世話し、きたる有事に備えて彼の健康を管理することなのでした。裏社会での生活に疲れて流れてきたと思しき医者。そして、酒もタバコも女もやらず、ひたすらストイックな鍛錬に励む寡黙なテロリスト。そこに組織のコンピューターがはじき出したもうひとりの要員として、コールガール(樋口可南子)が送り込まれてきます。3人はつかの間の静かな生活を送りながら、組織からの司令をひたすら待つのでした。その一方、組織のコンピューターが暗殺対象として指定してきたのは、当の新興宗教の教祖その人で…。

 

 

83年の公開時から気になっていた映画ですが、観たのは2020年の今が初めて。ものすごく当時の匂いを感じる映画です。映画はその時代その場所の雰囲気を切り取って冷凍保存するものですが、年月を経てなおその時代の匂いが鮮烈に蘇ってくる、そのような映画というのは実は限られているのではと思います。

 

 

この映画はその際立った例でしょう。あらすじに書いたようなシチュエーションとはいえ、新興宗教についても、テロリストについても、思想的な背景はおろか動機すら全く描かれません。そもそも無視されていると言ってもいい。物語は表層だけを追い求め、裏にあるはずの事情や思惑を追求せず、不穏さを漂わせながらストーリーを淡々と綴っていきます。裏書きの欠落した表層だけが、ただの道具立てとして思わせぶりに消費されていく…。この表層の掬い取り方、解らないものをあえて掘り下げない物語との距離の取り方に、濃厚な80年代みを感じます。

 

 

70年代までなら、主人公の内面や思想、動機を追求し、なぜそのような行動を取るに至ったかを明に暗に描写しようとするでしょう。90年代なら、それをパーソナルな主題に落とし込み、個の物語を全体の物語として象徴させた上でさらにエモーショナルに迫ってきたことでしょう。しかし、80年代に作られたこの映画は、物語を掘り下げず、筋書きの表層だけを謎めいて示す、という作劇に徹しています。この空虚感が愛おしいくらいに80年代。濃く語るよりも、ニヒルに漂わせる時代。あの頃はこんなのがカッコよかったのだ、という反省も気恥ずかしさもひっくるめての、2020年代からの俯瞰とノスタルジー。しかもそれが妙に心地よかったりするのです。

 

 

杉浦直樹の9:1

 

 

沢田研二のテロリストは、本人の面のような表情も相まって謎めいておりますが、海で水着姿になったときなど筋肉も少なく腹回りに至っては肉が余り気味で、今現在の視点から見ると「絞ってこんか!」と小言の一つも漏れます。ただこのテロリスト、生活能力があるのかすら疑われるデクノボウで、車の運転もまともにできない。役立たずの殺し屋という設定なのでこれはこれで正解なのでしょう。医者の杉浦直樹は汚れ仕事も厭わないタフガイ的な役回りなのですが、育毛剤の塗布が足りなかったのか9:1の微妙な髪型がハードボイルドさを滅殺しておりこのキャスティングはちょっとどうなのか。とはいえヌメヌメとした真意不明な中年の不気味さは大変良く出ており、髪型とのハーモニーとも相まってこの映画の不穏さをいや増しています。

 

 

演出もまた徹頭徹尾虚無感に徹しており、ときには映像を捻じ曲げてまで虚構感を突きつけてきます。暴力的な場面のあとに意図的に挟まれる裏焼きの映像。交通標識が明らかに鏡文字になっているのを隠そうともしません。と思えば、三人がレストランでテーブルを囲むシーン。カットが切り替わるとどう見ても三人の位置関係が入れ替わっているのですがそれを意図的にやっている。さらにその背景に無意味に暴力を振るう人間の姿が写り込んでいる。すごいのはドライブのシーンで、北海道の白々とした森の中、車を走らせる3人。その走り続ける車の周りをカメラがゆっくりと360度回り込みます。ちょっとこれどうやって撮っているのかわからない謎ショットですが、青ざめた色味と相まって現実離れした浮遊感を醸し出します。冷たく突き放したような作り物感。撮影の前田米造の手腕が光ります。ひたひたと浮遊する音楽(塩村修)も虚無感たっぷりで、ことにメロディを奏でるベルの音色(DX7?)がもう赤面するほどに80年代。

 

 

ラスト。沢田研二は教祖が北海道の田舎町に巡行してきたところを狙って凶行に及びますが、まるで訓練されていない素人丸出しの動きで教祖に近寄り凶行におよぶ前に捕縛されてしまいます。いままでの訓練はなんだったのか。とはいえ現場は騒然とします。そこから逃げ出した教祖をまた別のヒットマンが待ち構えておりこれを狙撃するのでした。沢田研二は実は囮であり、あらかじめ報われないことが決まっていた捨て駒だったのです。それを悟った沢田研二は何も言わず自らの手首を噛み切って壊れたスプリンクラーのような血しぶきにまみれ死ぬのでした。この犬死に感。空虚感。

 

 

まるで北野武の『3-4x10月』『ソナチネ』のプロトタイプを観ているような手触りです。これらの映画もひどい虚無感と痙攣のような暴力描写が同居する不気味な映画でしたが、『ときめきに死す』はそれを先取りしたかのようで、もしかしたらものすごく後世に影響を与えた映画なのかも知れません。北野武がこの映画を観た可能性は非常に高いと思います。

 

 

ときめきに死す

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