ありそうでなかった組み合わせ『続・激突!/カージャック』(1974)
こういう邦題がついちゃうほど『激突!』のインパクトは大きかったんでしょうか
監督:スティーブン・スピルバーグ。主演:ゴールディ・ホーン、ウィリアム・アザートン。ケチな盗みで仲良く懲役を食らった夫婦一組。妻のルー・ジーン(ゴールディ・ホーン)は一足先に出所したものの、愛する息子(二歳)はおつとめ中に里子に出されてしまいます。息子を取り戻したい一心でルー・ジーンは服役中の夫クロヴィス(ウィリアム・アザートン)をそそのかし脱獄させますが、警官に発見され車を奪って逃走。カーチェイスのあげく車は大破し追い詰められます。しかしルー・ジーンの機転で銃を奪って形勢逆転、生真面目な警官スライド(マイケル・サックス)を人質にとり、息子のいるシュガーランドを目指しての逃避行が始まるのでした。
なんか似たような映画こないだも観たな。しかしあちらは虚無的かつ詩的なのにたいして、こちらは陽性のコメディ風味人情派です。逃げる夫婦ですが人は殺さない基本方針、ルー・ジーンのあけっぴろげで陽気な性格、そして子供を取り戻したいという浪花節的動機にほだされて、追跡する警部もなるべくなら二人を殺したくはなく、人質にとられた巡査も根が善良であるがゆえにストックホルム症候群を発動、次第に夫婦の気持ちに寄り添っていくのでした。またマスコミが面白半分で事件の顛末を中継するもんですから彼らの道行きには人情話に感動した群衆がワンサカつめかけてお祭り騒ぎとなり、逃走車のうしろにパトカーと野次馬の車が鈴なりになったままハイウェイを爆走する、というように話がどんどん収拾つかない騒ぎにエスカレートしていくあたりがコメディとして可笑しい。しかしそこはそれ、アメリカン・ニューシネマ全盛期の映画ですから最後は三方丸く収まってみなニッコリ、みたいな松竹系寅さん風味の結末に至るわけもなく、あくまで虚無的なのがその時代の雰囲気ですね。
監督はあのスピルバーグ。劇場用映画としては初の監督作ですがこの映画からのちの業績を想像するのはちょっと難しいかもしれない。むしろTVムービーとして作られた前作『激突!』のほうが作家性を存分に発揮しております。しかしアメリカン・ニューシネマとスピルバーグというのはありそうでなかった組み合わせ。このあとすぐスピルバーグはあの『ジョーズ』を撮り始めてブロックバスター・ムービー誕生の端緒をにない、アメリカン・ニューシネマ終焉のラッパを吹いたのですから、ありそうでなかったというのもまあうなずけます。なお日本で『激突!』が大変高い評価を受けたので本作は”The Sugerland Express”という原題にもかかわらずこのようなぞんざいな邦題にされてしまいました。今じゃまず考えられませんがスピルバーグはまだジョーズもE.Tも撮っていないペーペーの新人でしたからこれもまあ仕方なかったのかもしれません。
なんと言ってもこの映画のポイントはルー・ジーンを演じたゴールディ・ホーンですね。無鉄砲・無分別・無邪気という三無いキャラを陽性のチャーミングな人物として演じるとしたらもうこの人しかいない。人質の警官が、追手である警部が、そして事件を知った野次馬がみんなこの人に魅了されていくのも、普通はえーちょっとそれはないでしょ、となるところを、まあゴールディ・ホーンだったらしょうがない、と思わせてしまうくらいの説得力。
旦那のクロヴィスの方はこのぐいぐい来る奥さんに押されて終始尻に敷かれ気味、それでも妻を愛している元チンピラ。という立ち位置の難しい役どころですがウィリアム・アザートンがこれを好演。この人『ダイ・ハード』シリーズの嫌味なレポーターの人ですね。若いころこういう役やってたのか。
二人を追う警部にベン・ジョンソン。陸上選手じゃないよ。この人も厳しさのうちに思いやりを持つ好人物を人情味豊かに演じております。ちょっと甘々な人物なのかなー、と思いきや、途中自警団を気取って夫婦を射殺しようとした一般市民をとっ捕まえて怒りを爆発させたりします。このシーンはこの映画の中では珍しく本気の怒りが感じられるシーンで、ちょっと異物感がありますが、スピルバーグはこういう正義の皮をかぶった悪意ある暴力を本気で嫌っているのだな、というのはたいへんよく解ります。
人質にされる善良な警官役のマイケル・サックスも好演。最初に出てきたときは殺されるモブかな?と思うほどの華のない見た目ですが、夫婦に対して打ち解けていくにつれ、次第に善良さと正直さが頼もしくみえてきます。地味にうまい。この人『スローターハウス5』の主人公だったひとか。意外なところでお目にかかりました。このあとしばらくして引退してしまったのが惜しい。
ラスト、すべてが終わってこの警官が呆然と河原に佇むシーン。夕日に川面がきらめくなか、肩を落とした警官のシルエットが結末のほろ苦さを象徴しております。こみあげる虚しさと寂しさに、静かに流れてくるエンドタイトルとジョン・ウィリアムスの音楽。噛むほどに味がでる、詩情あふれる名シーンです。ここでしみじみするためにこの映画はあったと言っても過言ではない。いや過言かな?しかしスピルバーグがこのシーンにいろいろな感情を込めている事はよくわかります。この苦味と虚しさがアメリカン・ニューシネマの真骨頂です。
シャチ対ダンブルドア校長・北極の大決戦『オルカ』(1977)
ちょっと大きすぎないですか
監督:マイケル・アンダーソン。主演:リチャード・ハリス、シャーロット・ランプリング。カナダのとある漁師町。いっちょシャチを捕まえて水族館に売っ払い一儲けしたれ、という魂胆でシャチの群れにモリを放つ漁師ノーラン(リチャード・ハリス)。しかしオスを狙ったはずがモリは隣のメスに命中。メスは囚われるのを拒んで自らスクリューに突っ込み自害しようとしますがこれを強引に引き上げたところ、ショックで流産。甲板の上にぼっとり胎児を産み落とします。船上が日本シリーズで4連敗した巨人のベンチみたいな空気になる中、ノーランは傷ついたメスを投棄。妻子を奪われたオスのシャチは目にノーランの姿をしかと焼付け、復讐を誓うのでした。かくしてノーランとシャチの戦いが始まるのでしたが…。
これ、封切り時に親に連れられて劇場に見に行きましたよ。たしか78年の正月映画だったはず。同時上映は『カプリコン・1』だったな。当時まだ幼稚園児でしたよ。その後一回テレビ放映されたときに目撃した覚えはありますが、今回ほぼ40年ぶりに観てみました。いやー意外と内容を覚えてるもんだな。幼少のころにこういう映画を観て育ったおかげで今だにそれを追いかけているという、三つ子の魂百まで状態です。きっと死ぬまでこうでしょうね。
で映画です。サメの次はシャチでいこう!という柳の下のジョーズの二匹目を狙った、いま現在一部で異常な増殖をみせているサメ映画の源流の近いところにいる映画です。アメリカ・イタリア合作映画というあたりに当時の山師的な意気込みがビンビン感じられます。冒頭、エンニオ・モリコーネの流麗なオーケストレーションに乗って、夫婦シャチが仲睦まじくクルル~ンキュイキュイと鳴きながら、まるでプールのように波が全く立たない海の上で戯れるさまを延々と写します。その後海洋学者のレイチェル(シャーロット・ランプリング)が大学でシャチの知能の高さと情愛の深さをとくとくと講義。ああ~いまからこの夫婦愛あふるるシャチがひどい目にあうのか。人間め。とお話の準備が整ったところで前述の奥様シャチ虐殺のシーンとなるわけです。逆さ吊りにされたシャチが肌色の胎児をヌリュッと産み落とすあたりはちょっとしたショック映像で、ここは幼稚園児だった私にも大変インパクトあるシーンだったらしくバッチリ覚えていました。いやー人間ひどい。ひどいな。このときの夫シャチの慟哭があまりに痛切です。これ例えばシャチをメル・ギブソンに置き換えると『マッドマックス』という映画になってしまうわけで、たとえ船長に男臭い演技派のリチャード・ハリスを持ってきたところでお前ら全員成敗されなさい!と思ってしまうのも無理からぬことでしょう。
あふれる東宝東和イズムと伝説のスパック・ロマン
ノーランは交通事故で妻子をなくした経験があり、今回のやらかしについては激しく罪悪感を覚えるものの、しかし生きてくためには仕方ないのだ、と強がりを見せますが、船のクルーが怒りに燃えた夫シャチに一人また一人と血祭りにあげられていき次第に顔色が悪くなっていきます。シャチもさるもの、港の燃料パイプを破壊して辺りを火の海にするなど復讐の度合いがエスカレート。アイルランドから流れてきたノーランと違い、土地っ子である同業者たちはシャチの恐ろしさを知っており、平静を装うノーランに「シャチを殺らにゃ皆が危険にさらされるでよう」と圧を掛け、ノーランに落とし前をつけるよう迫るのでした。漁村の住民がムラの論理でノーランを追い詰めていく辺りが、他のサメ映画とは一味違っていて面白いですね。
海っぺりに建っているノーランの自宅が夫シャチに襲撃され、乗組員のお姉ちゃんが片足をもっきり食い取られる、という事態にいたり、やっとノーランは重い腰を挙げてシャチ討伐を決心するのでした。ここで足をもがれるちょっとイモっぽいけどかわいいお姉ちゃん、実は有名になる前のボー・デレクでした。デビュー作らしい。いっぽう海洋学者のレイチェルはノーランの男臭さにフェロモンを感じたらしく特に用もないのにちょことちょこ現れ、ついにはノーランの対決に帯同する始末です。いやもちろん居てくれた方がいいですけどね。演じるシャーロット・ランプリングは最近『DUNE/砂の惑星』で魔女の元締めみたいな役をやっておられてお元気で何よりですが、漁網みたいなヴェールのおかげでお顔が全然判りませんでした。
予告編
決着をつけるべく出港したノーランですが夫シャチに導かれるように北極海にまで来てしまいます。流氷の上に誘い出され、銃でシャチの狙撃を試みますが、流氷の下からシャチに突き上げられて海に落ちたところを尾びれで跳ね飛ばされ、格ゲーの空中コンボのように流氷の上に叩きつけられて死ぬのでした。主人公が殺されてしまうというアンハッピーエンドな結末とは言え、シャチ的にはきっちり妻子の仇は取ったわけで、観ている方はスッキリしていいのか悪いのか、いまいち尻の座りが悪い状態に叩き込まれますが、まあ因果応報という概念に親しみのある日本の観客には「そうだよね」となる結末かと。お世辞にも明朗かつ爽快な結末とは言えませんが、冒頭の妻子虐殺シーンを思い出せば、このくらいやってくれた方が観客の気持ちにもスッキリけじめがついてよろしいと言えます。
大変な目に遭うダンブルドア校長
ノーランを演じたリチャード・ハリスはのちにハリー・ポッターシリーズでダンブルドア校長を演じるなどの名バイプレイヤーとして鳴らした方ですが、1970年代後半は『カサンドラ・クロス』や本作などのアクション映画の主演として一世を風靡した方でもありまして、まあ今で言ったら一時期のブルース・ウィリスとかそういう立ち位置の方でしたが、しかしなぜこの人が当時次から次へとアクション映画に主演していたのか、いまから考えるとちょっと不思議ではあります。やっぱり男臭さですかね。
やりおった!『007 ノー・タイム・トゥー・ダイ』(ネタバレあり)
公開延期前のだ。待たされましたね〜
監督:キャリー・ジョージ・フクナガ。出演:ダニエル・クレイグ、ラミ・マレック、レア・セドゥ。前作『スペクター』のラストで手を取り合って出奔したボンド(ダニエル・クレイグ)とマドレーヌ(レア・セドゥ)。つかの間の蜜月を楽しみ、お互い過去のしがらみを捨ててともに生きることを決意しますが、過去の精算のためにかつての恋人であり心の傷であるヴェスパーの墓を訪れたところ突然墓がボカン。スペクターの残党が追ってきます。これを撃退するときに「やつはスペクターの娘ぞ」と穏やかでないことを吹き込まれたボンドはマドレーヌを連れて逃走。アストン・マーチンの秘密兵器を駆使して追っ手から逃れます。命を狙われたのはマドレーヌの裏切りのためか?心に生じた疑念はその場での別れをボンドに決意させるのでした。
5年後。ひっそりとジャマイカで隠遁生活を送っていたボンドのもとに旧友のフェリックス・ライターがやってきてCIAへの協力を求めますが、これを断るボンド。そのあとに新任の007ことノーミがやってきます。これから近所で一仕事するけど邪魔しないでねパイセン。生意気な後任にイラッときたのか心配の虫が騒いだのか、一転してCIAの依頼を請けるボンド。MI6も絡んでいたウイルス兵器強奪事件を追い始めるのでしたが…。
『カジノ・ロワイヤル』から15年続いたダニエル・クレイグ版007サーガ、ついに完結編です。思えば40年ものあいだ、移りゆく時代に抵抗して心地よいマンネリズムに浸り続けていたシリーズを、今現在の価値観でじわじわアップデートしてきたのがこの15年だったのではないでしょうか。
・『カジノ・ロワイヤル』(2006)
→エレガントで超人じみたスーパーヒーローではなく、人間臭く血の匂いもする殺し屋としてのボンド。
・『慰めの報酬』(2006)
→誇大妄想狂的な悪役ではなく、悪辣な手段で人々を搾取する現代的な悪役。
・『スカイフォール』(2012)
→冷戦後のスパイは自家中毒を起こした無用の存在ではないかという問いかけと、それに呼応するようなどん底体験をへて、自分を見つめ直しエージェントとして完成するボンド。
・『スペクター』(2015)
→この作品はちょっとアプデが停滞した感じがあり、諸要素も過去作への回帰が感じられますが、ボンドの出自にまつわる因縁が生んだボンド自身の物語として、さらなる自己への見つめ直しを迫り、「護るもの」であることにエージェントとしての自己の存在意義を見出した、という見方ができます。
で、それらの総決算として本作はどうだったのか。
まずパッと目につくのは、過去のシリーズにあった「古い価値観」の更新終了!ってとこでしょうか。00課の面々はこの15年で人種的にもセクシャリティ的にもすっかり多彩になりました。なかでも新007のノーミは黒人女性ですから30年前にはとても考えられなかった抜擢です。それにボンドは行く先々で手当り次第に女を口説くこともなくなり、女の方も特にそれを期待してない、という図式も見られます。特にCIAの新人エージェントとして登場したパロマ(アナ・デ・アルマス)なんかはこれまでだとボンドに口説かれてウフフ、となっちゃうポジションですがそんな描写は今回全くなかったですね。ストイックになったもんです。
そしてもうひとつ。前作でせっかく手にした「護るもの」としての存在意義を冒頭で自ら手放してしまったボンド。生きる意義を失った彼は抜け殻となり5年間の空白生活を送ります。そこからまたどのように「護るもの」としての自覚を取り戻すかを描いたのがこの映画、ということもできます。
それを踏まえた上で、この作品の大きなポイントは二点。重大かつ衝撃的なネタバレなので、まだ見てない人は決して読まないように!
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オジサンによるオジサンのための映画『テレフォン』(1977)
ヤッツケ感あふるるジャケット
監督:ドン・シーゲル。主演:チャールズ・ブロンソン、リー・レミック。ドナルド・プレザンス。いまだ米ソが元気に冷戦していた頃、しかしなんとなく雪解けの気配も見えてきた頃の話。母国の権力闘争に敗れてアメリカに落ち延びたソ連の将校ダルチムスキー(ドナルド・プレザンス)。彼が手持ちのメモを元にとあるアメリカのおっちゃんに電話をかけ「森は深く美しい。だが…」とフロストの詩の一節を読み上げると、なんということでしょう。さっきまで元気に仕事をしていたおっちゃんが突然魂を抜かれたようになり、車に爆弾を積み込んで米軍基地に突入、そのまま建物に激突して爆発炎上するではありませんか。
同様の不可解なテロが相次ぎ、アメリカ側は調査に乗り出す一方、ソ連側は「あいつ、やらかしおったな…」と苦い顔です。というのも昔ソ連の高級将校が書記長さまに無断で仕込んでおいたテロ作戦「テレフォン」を、逐電したダルチムスキーが勝手に起動させたからなのでした。その手口がまた凝っているというか気が長いと言うか、ソ連からアメリカに送り込んだ留学生にこっそり催眠術をかけておき「草」としてアメリカ社会に溶け込ませ、後日キーになる言葉を電話で聞かせることによって催眠が発動。一介のアメリカ市民からテロリストに化した「草」は爆弾を抱いてぽんぽん基地に突っ込んでいくという、なんだろう、手が込んでいるというかまだるっこしいというか、とにかく気の長い時代でした。
その草がなんと50人から居るといいますから、このまま放っておくとアメリカ政府もさすがに事のからくりに気づき、デタントもどこへやら、せっかくの雪解けムードもたちまち氷河期に逆戻りしてうっかりすると核の投げつけ合いになりかねない。なんとかせねば。といっても書記長さまにはナイショだからできればこっそり処理したい。というわけで白羽の矢が立ったのがボルゾフ少佐(チャールズ・ブロンソン)です。見た目はどう見ても汗とホコリとマンダムの臭いしかしないブロンソンですが、実は有能なソ連の将校であり、しかも写真記憶というチート能力も完備。渡された「草」リストもテスト前の受験生のように読み込むだけで暗記可能という浪人垂涎の異能っぷりです。しかしこの映画のソ連の将校、全員が全員日常会話も全部英語でこなすという語学の達人っぷりで、旧ソ連にも社内公用語は英語というルールがあったのでしょうか。ないですね。
ボルゾフはアメリカ人のふりをしてカナダ経由でアメリカに潜入。現地の助手としてやはりソ連の女スパイ(リー・レミック)と合流し夫婦を装ってダルチムスキーを追うのでした。いっぽうCIAもボンクラではなく、コンピューターにめっぽう強いメガネっ娘がデータ解析からことの異常さに気づき、かくてボルゾフ少佐とCIAの捕物競争が始まるのでしたが…。
「苦み走る」を絵に書いたような
なんでしょう、冷戦も遠くなった2021年のこんにちからみると、えらいこと悠長かつトンデモな作戦じゃないか、と思われるかも知れませんが、当時はこれが割とリアリティを持って受け止められ、いやーソ連のことだからこのくらいのことはやるじゃろ、アメリカだってじつは裏で…というような認識が当たりだった時代ですから、東西冷戦というのがいかに異常な状況だったかがしのばれます。007みたいなことをわりと大マジにやってて、超能力を研究して遠隔スパイに役立てようぜとか、人工衛星からビーム出して敵のミサイルを迎撃しようぜとか、字面で書くと普通にスペクターみたいなことを互いにやってたんですからすごい時代でした。おかげでこのような国際エスピオナージュの傑作が各方面にぼんぼん生まれてしまい、エンタメ的にはうるおいのあった時代なのでしょうが、当時を生きてきたものとしては、いつか全面核戦争になっちゃうー。のすとらだむすのすとらだむす。とヒヤヒヤしていたのもまた事実です。痛し痒し。
この作品もその例にもれず、ドン・シーゲルの締まった演出とブロンソンの渋い存在感、そしてピーター・ハイアムズにスターリング・シリファントという70年代汁あふれる才人によるスリリングな脚本で、小品ながら面白い傑作になっております。とくに要職を追われて腹いせにテロに走る小物将校、という役どころを水を得た魚のように演じるドナルド・プレザンスが秀逸。変装のため金髪のカツラと眼鏡を着用したところ縦横比の狂ったエルトン・ジョンみたいになってしまうという珍場面もご披露。こいつがターゲットに次から次へと電話をかけるのですが、遠くから電話してデンと待っていればいいものを、必ず近くから電話して一部始終を確認しないと気がすまないというセコさで、これが並の役者なら「なんだよ~この脚本」となるところを、まあドナルド・プレザンスだからなあ、と思わせてしまう説得力。さすがです。
ヅラトン・ジョン(演:ドナルド・プレザンス)
女スパイを演じたリー・レミックのスパイにあるまじき明るさもまた良く、そのマザービスケットのCMみたいな陽性のキャラはときどきこいつホントにソ連のスパイなん?と思わせるところがアレですが、まあそういうのはもういいじゃないですか。この人が辛気臭くなりがちなドラマにハリとうるおいを与えております。ついでに言うとCIAのコンピューター係のメガネっ娘(タイン・デイリー)も独特の存在感でよろしい。この人『ダーティハリー3』でイーストウッドの相棒の女刑事やった人なんですねえ。
しかしリー・レミックといいタイン・デイリーといい、ともに印象的な役柄ながら、徹底してブロンソンを始めとする劇中のオジサンたちの添え物みたいな描かれ方で、リー・レミックはなにかというと思わせぶりにブロンソンに色目を使い、タイン・デイリーの方は仕事で大当たりを出したあと感激した上司にチューをされて「やったー」なんてウキウキしてますから、2021年のこんにちからみると、うわっ、大丈夫か。セクハラじゃないのか。こんなオジサンに都合の良い女性の描かれ方は炎上しちゃうー。と冷汗の垂れるシーンが続き、劇中朴念仁を通していたブロンソンも結末に至っては事件が解決して気がゆるんだのかウキウキしながらリー・レミックをラブホに誘う、という頬のたるみ切った結末で、ああ、これはオジサンが作ったオジサンのためのファンタジーなのだなあ。と変なところで時代を感じるのでした。あれから44年、映画も世界もすっかり変わりましたよ。
シシー・スペイセクという依代『地獄の逃避行』(1973)
ぞんざいな邦題はTV放送のときにつけられました
監督:テレンス・マリック。主演:マーティン・シーン、シシー・スペイセク。1950年代のアメリカの田舎町。清掃員をやりながらくすぶっていた青年キット(マーティン・シーン)は、ある日庭先でバトンの練習をしていた少女ホリー(シシー・スペイセク)に声をかけてなんとなく仲良くなります。特に激しい感情もドラマティックな展開もなく、なんとなく恋仲になる二人。しかし体の関係が出来たあたりでホリーの父ちゃんは激怒です。「もう娘に会うな!」と言われても会いたさがつのるキット君。なんとなく駆け落ちしようかなとホリーの家に忍び込んで勝手に荷造りしているところを父親に見つかり、なりゆきでこれを射殺。なんとなく家を焼きホリーを連れて逐電します。そして行く先でだらだら殺人を重ねつつ二人旅を続けるのでしたが…。
実は。私は幼少のころからシシー・スペイセクという人が怖いのです。父の「スクリーン」誌に載っていた、頭からおびただしい血を浴びて驚愕の表情をしている写真。当時小学生にもなっていなかった私はビビリました。なんて怖い写真だろう!というかなんて怖い顔の人だろう!怖いと言っても、オラついてるとか凶暴そうというのでは決してない、気弱さの中に不吉さをはらんだ禍々しい顔。いまネットでその写真を探してみましたが…ありました。この写真だとかぶった血の跡と驚愕の表情のためにちょっと顔がドクロっぽくなっちゃってるのがまた…。それに頭から血を浴びるという幼稚園児の理解をはるかに超えた目に遭わされている、という二重のインパクトで当時の私は震え上がったのです。まったく!映画というものは!何てヒドいことをしでかすのか!
問題の写真(ひいいいい)
その映画が『キャリー』で、写真の人はシシー・スペイセクという女優である、という知識はあとからついてきました。小学生になり、夏休みに月曜ロードショーで放映されたものをこわごわ観たところ、こっちはさらに怖かった。血を浴びて怒り心頭となったシシー・スペイセクの恐ろしさよ!肝が座ってこれから殺戮を起こそうとしている氷のような表情。その後母親と泣き崩れているときの、哀れさが極まって不吉の域にまで達してしまった顔。そして最後のあのシーン!これは怖いぃ怖すぎるぅぅ!というわけで以後シシー・スペイセクは私の「こわい箱」のド真ん中を占める恐怖の女王になってしまったのです。
その後、大人になってから改めて『キャリー』を観返しましたが、成長して恐ろしさには耐性ができた分、今度は虐められたり家庭環境がひどかったりと不幸なシーンがあまりに哀れで、いっぽうプロムのシーンでは別人のように美しく輝いていたりと、その極端な振れ幅にシシー・スペイセクという女優の凄さを知ったのでした。キャリーという人物を身体におろして実体化する、依代としての女優。
いや『キャリー』の話が長くなりましたが、それを踏まえた上での『地獄の逃避行』です。ここでのシシー・スペイセクはシリアルキラーに連れ回される娘っ子の役どころですが、ギリギリ自分が手を下していないだけで、実態は共犯に限りなく近い存在と言えます。自分に依存しているキットが一緒に旅を続けるために殺人を犯しているのは明白ですが、その自覚がないままなんとなく付き従って結果的に彼を殺人に走らせている、というかなり厄介な共犯関係です。ホリーは設定上は15歳なのですが、演じるシシー・スペイセクは当時20代前半。なのに画面上ではどうしても15歳にしか見えない。痩せて未成熟な体つきに、化粧っ気のないそばかすだらけの顔。とくに何か深く考えてはなさそうな表情。流されるまま男についていく子供特有の主体性の無さ。
ティーンにしか見えんよなあ…
シリアルキラーの犯行を描いた映画ながら、殺人の場面は驚くほど高揚感がなく、争いらしい争いもほとんどありません。特徴的なのが憎しみという感情を表出する人がほとんどいないこと。被害者たちは抵抗らしい抵抗もせず、怒り狂うこともなく「なんか撃たれたみたいなので死にますー」的に仕方なく死んでいきます。キットが逮捕されたあとも警察は罵ったり脅したりせず、むしろキットを連行しながら「幸運を祈る」なんて言ってる。殺す方も殺す方で特段逡巡も良心の呵責もなく、なんか面倒だから撃ちました、くらいのぞんざいさですし、それを傍観しているホリーもなにか他人事のような感じです。この現実感のなさを体現しているのがシシー・スペイセクという依代で、そのあまりに自然な傍観者の佇まいがこの映画の浮遊感を加速しています。
ここでの彼女は積極的に演技をしているというよりも、求められるままホリーという役柄の素材として自らの身体を提供している印象です。ホリーをみずからの身体に憑依させていると言ってもいい。その自然さは只者ではなく、やはり依代としての能力の大きさを感じます。もはやホリーと同化したシシー・スペイセクは、この映画が持つ浮遊感、無目的さを、ごく自然に体現しています。
もうひとり、キットを演じたマーティン・シーンの、ちょっと常人の思考からはかけ離れた行動と、殺人に対する頓着のなさ、行動の無目的、無思想を体現した演技がまた映画から現実感を奪っていきます。その浮遊感が美しい森や荒野の風景と共にに描き出され、シリアルキラーの物語なのに何かおとぎ話をみているような寓話性を感じさせるのです。
ちょっと疲れてきました
そんなキットとの旅が煮詰まってきて、だんだんと「あたし何やってるんだろう」と自分の置かれている状況に疑問を呈し始めるホリー。そのとき彼女の顔には15歳の少女ではなく倦み疲れた女の表情が浮かびますが、この疲れのにじませ方には、依代としてではなく女優としての方のテクニカルな凄みを感じます。ただ怖い顔の人ではなかった。すごい依代であり、すごい女優なのだ、と私は感動に包まれるのでした。でもやっぱり怖いけど。