カジノロワイヤルの手帖

banの映画感想&小説漫画音楽路上日常雑感。

加藤和彦氏逝く

昨日この訃報を聞いて、愕然としました。なんで?どうして?という気持ちがぐるぐると渦巻きました。その後の報道で「音楽でやることが何も無くなった」というような手紙を知人に宛てて書いていた、という話を聞いて、なおさら「どうして…」という気持ちが強まりました。まだまだ現役でやれることは一杯あったんじゃないだろうか。何でそんなに行き詰まっていたのか。それは氏ご本人しか理解できないものかも知れませんが、氏が日本の音楽界に残した先駆者としての功績、発掘した人材、残した作品を考えると、まだまだやれることは沢山あったんじゃないんだろうか、と遣り切れない気持ちになります。ホテルの一室で縊れて死ぬという、生前の粋な生き方からは程遠い無惨な最期。そこまで氏は追いつめられていたのでしょうか。あまりに残念です。


しかし、逝ってしまった方はもう戻っては来ません。心よりご冥福をお祈りいたします。


以下、個人的な思い出の話なので、一旦たたみます。





詳しい事情は書けませんが、数年前に縁あって、およそ一年近くに渡りご一緒に仕事をさせて頂いたことがありました。そのとき自分は、依頼したい楽曲の発注、関係資料のまとめと氏に対するプレゼン、頂いたデモのチェックとOK出し、NG出し(!)を担当し、何度も東京に通っては打ち合わせをして、時には氏自身にも札幌に来て頂いて、こつこつと仕事をまとめあげて行きました。東京での収録の際は御用聞きや使いっ走りみたいなこともやりました。終盤はオイラも氏も昼夜ぶっ通しの仕事になり、氏から「点滴打ってきたのでもうすこし頑張ります」とメールが来たのであわてて「ムリしないでください!」と返信したこともありました。


氏はいつも微笑みと紳士的な態度で、オイラのようなどこかの馬の骨にも接してくれました。少しも偉ぶらず、オイラからのダメ出し(今考えても身震いがします)にもキチンと応えていただいて、紆余曲折ありながらも最終的にはパーフェクトな結果を出して下さいました。その仕事に対する真摯な姿勢は今思い出しても胸が熱くなります。


終盤、仕事が修羅場になってきて、こちらからあからさまに無茶な要求を出した時は、氏もさすがに堪忍袋の尾が切れて、お叱りのメールが飛んできたこともありました。まあこちらの要求がむちゃくちゃなので怒られるのが当たり前なのですが、それでも根気よく最後までつきあって頂いて、あのときの氏の仕事っぷりには本当に頭が下がる思いでした。その時は私の上司が「怒られ侍」となって、氏からの怒りを受け止める防波堤になり、彼が氏とメールで腹を割った話をして、最終的には河原で殴り合ったあとに友情が芽生える、みたいな清々しさで氏からも「カッとなってすみません。仕事中はどうしてもテンションが上がってしまって。頑張ります」という意のメールが来て、そのときは上司とともに心からホッとし、氏の度量の大きさに感謝したものです。


たまに酒席を設けたこともあって、そのときはフォークル時代やミカバンド時代の貴重なエピソード、ミュージシャンとの交遊などについても話をして下さいました。「こないだ楽屋にブライアン・フェリーが遊びにきて」という雲の上過ぎる話が出たりして、こちらはひたすら畏れ入りながら話を聞いていました。たまたまオイラの母親がフォークルのファンだったので「子供の頃から『紀元弐阡年』を聞いて育ったんですよ」という話をふると、それにまつわる話もいろいろしていただき、あの「イムジン河」発売中止時のエピソードも氏ご本人の口から聞かせていただきました。


年の瀬になって、仕事が修羅場中の修羅場だった折、私の携帯へ氏からのメールが入って、何事だ!と緊張して携帯を見ると「メリー・クリスマス!」というメールだったので思わずホッとしたと同時に、なんてマメな人なんだ!と感動したこともあります。


ご一緒に仕事をさせて頂いたときの思い出は尽きませんが、とりとめがなくなってきたのでこのへんで終わります。本当に貴重な体験をさせて頂いたと思っています。機会があればまたお会いしたいと常々思っていましたが、このような形で、二度とお会いすることが出来なくなってしまったことは本当に残念で残念で仕方ありません。ミカバンドの「黒船」、スゲーカッコいいですね!というミーハーな一言が結局言えないままでした。改めて、ご冥福をお祈り致します。

黒船

黒船