カジノロワイヤルの手帖

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凄くありふれた内容の、全然ありふれてない映画『Keiko』

Keiko 【初DVD化】

 

監督:クロード・ガニオン。主演:若芝順子。ケイコさんは京都で一人暮らしをする23歳の会社員。映画館で痴漢にあったり、高校の恩師を誘惑してとりあえず処女を捨ててみたり、惚れた男とイイ仲になるものの妻子がいると知って別れてみたり、会社の若い男に迫られてもイマイチその気にならなかったりと、どうにも満たされない日々を送っておりました。その隙間を埋めるように会社の先輩と同性愛の経験を経て共同生活を送るようになり、楽しい毎日に気持ちは満たされるのですが、先輩が優しすぎてこのままじゃあたしダメになっちゃう。と親の勧める見合い相手と結婚するのでした。おわり。

 

 

 


以上、もう話としてはずいぶんありふれているわけですが、にもかかわらず全然ありふれていないのがこの映画なわけです。この映画、ドキュメンタリータッチを更に推し進めて、会話の内容、間、セリフ回しといったところから一切の演劇的な要素を排し、普通の人が普通の生活で話すような普通の会話だけで進行していきます。おそらくはアウトラインだけ決めた即興と思われますが、男との別れ話も、同僚との気の進まないデートも、先輩との飲みながらのダベリも、すべて曖昧でぼんやりとした、全く作為的でも演劇的でもない会話や仕草で構成され、とりとめはなく、セリフは押しなべて聞き取りにくい。それは我々が普段の生活を営んでいる時そのままの情景です。


この映画の面白いところは、実際の女性の生活に密着したドキュメンタリーではなく、筋書きのある「劇映画」でありながらこのような手法を取っているところです。そこにある落差が、いかに通常の劇映画が演技という作為をまとっているか、という事実をありありと示してきます。劇映画から「計算された演技」を完全に抜き取ってしまった場合、そこにどういうものが表れてくるか、ということをこの映画は実作としてやってしまったということで、そこに残ったのは生々しさを通り越した、普段の我々自身の姿そのもの。ああ本当に自分たちはいつもこんな感じで会話しているよな、ということをまざまざと見せてくれます。会話のはしばしで表れる愛想笑い。言いよどむ言葉。はっきりしない言葉尻。油断しきった表情。筋道や着地点が見えない会話…。


長回しが多いものの、カメラワークはキチンと計算され、必要なところではカットも割られ、照明も設定され、深町純による流麗な音楽が情景をキチンと描写していきます。それらは全く劇映画のイディオムですが、会話だけが完全にドキュメンタリータッチ。この落差がすごい。

 


Keiko Opening - YouTube / 3分あたりから会話のシーン

 


我々日本人は「映画」というだけで、滑舌のよいセリフ、筋道の通った会話、起伏のあるストーリーをつい念頭においてしまいますが、そういう形式が取り去られてしまった映画というのは異形であるが故に新鮮で、しかも昭和50年代中盤の市井の人々の生活風景(狭い和風のアパート、銭湯通い、公衆電話、ところかまわず吸われるタバコ、ブルタブ式の缶ビール、軽食喫茶のたたずまい、個人商店の店先、etc)が濃厚に記録されているために、当時の若い女性の生活をなまなましく切り取っており、ありふれた話でありながらついつい観入ってしまうのです。



監督はなんとカナダ人。日本語ネイティブでないがために、伝統的な日本映画のセリフ回しや演技というものに頓着がない結果、このような異色の映画が生まれたのだと思いますがどうか。外国人が日本で撮った映画というと、どうしてもスシテンプラ、フジヤマゲイシャハラキリ〜。みたいなエキゾチックジャポーンが炸裂しがちですが、この映画は我々日本人が思いもよらなかったやり方でジャポーンを切り取ってみせ、異邦人の目から見たありのままの日本人の姿を活写しています。そしてそれは我々日本人にとっては、まるで自分では決して見ることのできない自らの背中を眺めているような、新鮮な味わいなのでした。