カジノロワイヤルの手帖

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グラン・トリノ

グラン・トリノ [DVD]
監督:クリント・イーストウッドこないだ観た『チェンジリング』と対になる映画で、アチラは母性の強靭さを描いた映画、こちらは父性のひとつのありかたを示した映画でした。この映画については町山智浩氏らによる詳細かつ行き届いた分析がすでになされているので、オイラごときが知ったか光線を発射して解説するのもおこがましい。興味のある方はググるなり雑誌の記事を読むなどして是非「なーるほど」ポン!と膝を叩いていただきたい。


まあこれだけだと芸が無いので感想を述べておくと、クリント・イーストウッドが演じるのはウォルト・コワルスキーという偏屈じじいなのですが、これが老いたハリー・キャラハンだったとしても全く違和感がない。というかイーストウッドも明らかに判ってて「ダーティハリー」の老後をコワルスキーにダブらせています。往年の"Go ahead,Make my day"に匹敵するような名台詞があの鋭い眼光とともにボンボン出てきますし、こういうタフなじじいに銃を突きつけられれば血気盛んな街のチンピラちゃんも塩をかぶったナメクジのようにならざるを得ない。ただ、ここでイーストウッドが銃をバンバン撃ちはじめると「ダーティーハリー・ザ・ファイナル」か「デス・ウィッシュ/最後の戦い」になってしまうのですがそうならないところがこの映画のたいそう渋いところです。


あと意外だったのが、けっこう微笑ましいというか、中盤は結構ユーモアの色が濃いんですね。コワルスキーじいさんがふとしたキッカケでおとなりのラオス系の一家と仲良くなるあたり、とぼけた味わいでクスクス笑わされます。ただその過程で、頑なだったじいさんの心がしだいにほぐれてゆく経過がなんともしみじみとしており、この辺りで既に胸が熱くなります。


で、色々あってコワルスキーじいさんはヘタレを絵に書いたようなお隣の長男に男の道を叩き込むのでした。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と書いたのはボーヴォワールでしたがその伝でいえば、やっぱり人も男に生まれるのではなく、男になるのだ。ということをこの映画は暗に語っています。それは騎士道や武士道みたいに大上段に振りかぶったものではなく、もっと家庭的なもので「父親になること」と「父として教える事」が取りも直さず男を育てる事であると。この映画ではそれが家屋を大事にすること、男らしくふるまうこと、手に職をつけ真面目に勤め上げる事、といったアメリカの価値観を通して語られてますが、文化の違いはあれど男らしさというものは父や父の代理たる存在(師匠とか兄貴分とか先生とか)が、次の世代にきちんと規範として示さなければ受け継がれないということは普遍的な真理であると思います。


チェンジリング』における母性は本能的なところ、確固たる何かに根ざしているように思いますが、『グラン・トリノ』では、父性とは、まず父自身が父であるということをしっかり認識し、意識的に子に規範を見せなければいけない、というところで、自覚がないと発揮されないものであるということを描いています。これはちょっと考えさせられるものがありました。いま仮に自分にポンと子供ができて、さあ人間の規範を身をもって示しなさい、と言われてもこれはなかなか難しい。まず自分が規範に値する人間なのかどうか、それを問うことから始めないといけない。問うてみて自分チャンとしてないじゃん!となればチャンとしなくちゃいけない。父であるということはそれほどに難しいことなのか。というかここで難しいことだと感じている事自体がすでに問題だろう。なんて色々考えさせられましたよ。


話の結末は伏せておきますが、この映画のラストもまたハリー・キャラハンを思わせる部分が濃厚にあり、老兵のオトシマエの付け方というものを見せつけられて男泣きサンダーが静かにスパーク。あとエンディングに流れる歌(この映画のオリジナル)が実に良い歌で、映画の余韻と相まって心にしみ入ります。


なお、コワルスキーじいさんに男の道を叩き込まれるお隣の長男ですが、劇中ずっと羽生名人を超越した独特の寝グセが爆発しており、うわーあの寝グセ気になるわー。ああー気になるー。と観てる間じゅうもんもんしていたのですが、コワルスキーじいさんが彼を理髪店につれてゆくシーンがあり、ああやっとこいつの髪型もまともに…と思ったら理髪店では「男同士のウイットに富んだ会話の仕方」の勉強があっただけでついに彼の寝グセは矯正されずラストまで維持されていました。じいさん、女の子の口説き方を説教しているのにそこを放置しとくのはどうよ…。余談でした。