カジノロワイヤルの手帖

banの映画感想&小説漫画音楽路上日常雑感。

最近読んだ本のメモ(2024年2月)

ちかごろ短編集ばっか読んでる気が。

 

 

火星年代記レイ・ブラッドベリ(ハヤカワ文庫)

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

初読。火星への探検を始めた地球人、そしてやってきた地球人に対峙する火星人。火星に入植し定着してゆく人類と全面戦争で滅びる地球、という物語を26の短編と断章で綴った年代記。…とまとめるとハードなSFの香りがしますが、視点はその時々を生きる市井の人々とその生活にあり、筆致は詩のように静かで柔らかく、時として物悲しく、時として寂寞で、たまにドタバタ笑劇も入ってたりしてますが、読後はそこはかとないうら寂しさ、無常感に包まれます。一方で近代の科学文明やアメリカの文化風習に対する風刺や批評性があり、また一方で奔放な想像力で描かれたファンタジックな描写があり、多彩な面を持った小説でした。こんな叙情的なSFもあるんだなあ…。

 

 

 

「ブラウン神父の童心」G.K.チェスタトン創元推理文庫

 

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

 

うーん、たぶん15年ぶり3度目くらい。なんでしょう、韜晦気味の文章のせいか過去2回とも読み飛ばし気味で、今回3度目にしてやっと味読した感じ。話もトリックもかなり忘れてました。すいません。

 

短躯に丸顔、丸い鼻という一見無能そうな外見のブラウン神父ですが、秘めたる超人的な洞察力で怪事件をズバッと解決、というおなじみの短編集。黎明期のミステリにおいて数々のトリックの原型を作ったとされる名シリーズです。三読めにして気づきましたが(遅っ)、トリックは意外に無理めな物があり、「神の鉄槌」「アポロの眼」など、19世紀が舞台ということを差し引いても「そうはならんやろ」というものがチラホラあります。しかし皮肉と逆説に満ちたひねくれ文章がそれをカバーし、ねじくれたモノの見方、批評精神で小説の中の価値観を揺さぶって無理目のトリックも成り立つように見せてしまうのがこの本の凄いとこでしょう。

 

思い込みや常識の裏をかく「奇妙な足音」「見えない男」といった傑作が揃いますが、この本では有名な「賢い人は木の葉をどこに隠すかな?」「森でしょ」という警句を含んだ「折れた剣」が抜きん出て凄い。木の葉を隠すために森を作るという逆転の着想に、人間の悪辣さや残虐さをこれでもかと描いた陰惨な真相、さらに過去の事件を当時の文献や存命者の証言から推理する趣向、と贅沢を極めた一編です。その他、トリックの巧妙さもさることながら、川下りしながら夜空を見上げる情景がことに美しく印象を残す「サラディン公の罪」、荒れ谷にそびえる古城の不条理な謎と意外な真相を、徹底したゴシック風味で描く「イズレイル・ガウの誉れ」など、描写の味わいと内容の良さが結びついた傑作が並んでます。中村保男の訳は格調高いですが、現代の眼からみると読みづらさは否めないので、このへん新訳だとどうなってるんでしょう。読み比べてみたいですね。

 

 

「ブラウン神父の知恵」G.K.チェスタトン創元推理文庫

 

ブラウン神父の知恵 (創元推理文庫)

 

で、その続きを買って読んでみました。前作ほど有名なネタがないせいか印象は地味ですが、「イルシュ博士の決闘」といった大ネタや、「泥棒天国」「紫の鬘」といった意外な結末の佳作が並びます。

 

20世紀初頭の小説だけあって、人種的な偏見も20世紀初頭のそれなので、読んでて気まずい箇所がチラホラ。古典のこうした点を今になって修正してしまおうという動きがあるそうで、クリスティの名作などがその標的になっているという話も聞きます。しかし、これはこれで当時の社会の在りようをそのまま描いたものとして残しておくべきですし、百歩譲って改定するにしても、オリジナルはオリジナルのまま別に残しておくべきでしょう。差別はなくすべきだけど、存在した差別をなかったことにしてはいけません。過去から学ぶ手段は残して置かないと。

 

 

 

「未来世界から来た男」フレドリック・ブラウン(創元SF文庫)

 

フレドリックブラウンまっ白な嘘未来世界から来た男2冊セット創元推理文庫/創元SF文庫Fredric Brown

 

初読。短編の名手による、SFとミステリ両方のショートショートが楽しめるオトクな一冊。ごく短いものから、普通の短編と言っていいボリュームのものまでたくさん入ってますが、プロットが骨組みのまま書かれたようなショートショートよりも、語り口や描写のうまさを味わえる分、短編のほうが読み応えがありますね。

最近見た映画のメモ(2024年2月 その2)

観たい映画を全部観るには人生は短すぎやしませんか。どうですか。

 

 

 

駅馬車』(1939)監督;ジョン・フォード

 

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初見。お勉強のため鑑賞。恥ずかしながら初ジョン・フォード駅馬車とは今の乗合バスの馬車版です。アメリカの西部開拓時代、町と町とを繋いでいた駅馬車に乗り合わせた人々…飲んだくれの医者、町を追われた女、身重の中尉婦人、キザな賭博師、気弱なセールスマン、横柄な銀行家、そして保安官に御者。彼らはネイティヴ・アメリカンの襲撃を恐れながら町を出発しますが、途中から脱獄囚(ジョン・ウェイン)が乗り込んできます。様々な人間模様が交錯する小さな駅馬車は果たして無事目的地にたどり着けるのであろうか、というお話。

 

目的地にむけて危険な地を通り抜ける、というシンプルな筋立てですが、狭い駅馬車内が社会の縮図になっていて、前半はその人間模様が描かれ、簡潔ながらも適格な描写でキャラの彫り込みがなされております。対立やロマンスや出産といった出来事でそれが深められていく過程がうまい。また、道中、進むか戻るかを議論や多数決で民主的に決めているあたりが実にアメリカっぽいですね。『ポセイドン・アドベンチャー』みたいな後世の名作のひな形をみる気がします。

 

後半、アパッチの皆様がオホオホ言いながら襲ってくるわけで、ネイティヴ・アメリカンを問答無用の悪役に据えているあたりは今の目で見ると大変居心地がバッドなのですが、まあこういう歴史観が一般的だった頃の映画ですね。この襲撃シーンのアクションがすごく、疾走する駅馬車に馬を並走させながら飛び移ったり、そこから落馬して馬に踏まれながら車の下をくぐったり、御者台から馬に飛び移って背中を飛び石にしながら先頭の馬に乗ったりと、残機がいくつあっても足りないレベルの危険なアクションが連発され、昔の西部劇も一時期の香港映画みたいだったのだなあ、と感無量です。

 

ここのアクションがあまりに凄いため、このあとジョン・ウェインが町で宿敵と相まみえる下りが蛇足にすら見えてしまうのが痛し痒しですが、明快なストーリーに豪快なアクション、丁寧に描きこまれた人間模様、という充実した娯楽映画でした。名作と言われるのもうなずけます。

 

 

 

雨に唄えば』(1952)監督:ジーン・ケリースタンリー・ドーネン

 

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初見。タイトル曲と雨のなかのダンスシーンがあまりに有名なミュージカル映画ですが、意外とそれ以外の点は知らなくて、これもお勉強として履修。まったく勉強不足にもホドってものが…。タイトル曲も含めて、既存の曲をありあわせて作ったミュージカルだけあって、内容的には気楽に観られるライトなコメディで、サイレントからトーキーへの過渡期の、ハリウッドの内幕を描いた一種のバックステージものです。トーキー黎明期の録音の試行錯誤とか(このへんは『ようこそ映画音響の世界へ』でも取り上げられてましたね)、発声に苦労する映画俳優(それまでは喋る必要がなかったですからね)とか、映画音響史的に興味深いシーンがいくつか。

 

しかしそういった部分を圧倒するミュージカル部分の凄さ!顔が油粘土に入れ歯を挿したみたいな質感ジーン・ケリーですが、身体のキレは凄まじく、タップダンスを多用した激しい振り付けを完璧にこなし、相方のドナルド・オコナーも壁の駆けのぼりなどの曲芸に時折みせる顔芸でこれまた完璧。二人が並んでズダダダダダと見事にシンクロしながらみせるタップなどはまさに圧巻。これはすごい。昔のハリウッドのミュージカルを舐めてました。全然現代にも通用するじゃないですか。すみませんでした。

 

思いつきを次々投入したような構成と、脚本家が現場で書いたみたいなザッカケな話ではあるんですが、一つ一つのパフォーマンスが異常に高レベルで次から次へと出てきますから、そんなことは観ててもうどうでも良くなりましたね。例の雨のシーンも、ウキウキする曲と完璧な振り付けと計算されたカメラワークで恋の高揚感が見事に表現されています。みていて思わず笑顔になる幸福感に満ちた一本です。必見。

 

 

 

 

『哀れなるものたち』(2023)監督:ヨルゴス・ランティモス

 

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現在公開中。マッドサイエンティストが身投げした妊婦の死体を拾い、胎児の脳を母親に移植。大人の身体を獲得した赤ん坊は成長して冒険の旅にでるのでした。というブラックかつ狂った幻想譚。凄いのは「冒険」のなかに性行為をバッチリ含んでいる点でして、そのものズバリな性描写があちこちに炸裂しまくっておりますが、扱いがあっけらかんとしているため猥褻な感じはまるでなくむしろ滑稽ですらあり、さらに美しい撮影と美術で描かれているため観ていてこれはいったいどういう気持で見てればいいのか混乱さえ覚えます。無粋な修正が入ってないのは大変よろしいですね。

 

身体は大人、頭は子供という逆コナン君状態の主人公は人間が根源的に持つ冒険心、好奇心を燃料に冒険の旅を続けていきます。初めは言い寄ってくる大人におもちゃにされたり騙されたりするので大変な苦難の道のように思えますが、急速に発達する知性によって彼女はあらゆる体験を冷静に分析する客観性と窮地を切り抜けるための合理性を獲得し、一人の人間としてめざましく成長。自分の自由を奪おうとするあらゆるものにNoを突きつけるのでした。それゆえ描写や行為やセリフのきわどさ、不道徳さにもかからわずこの映画は清々しい後味すらあります。

 

女性であるがためにある種の人間の支配下に押し込められ自由を奪われることについてこの映画は明確にNoを宣言しており、そういった意味では女性解放映画であるとも言えますが、もっと根源的な、性別を問わない魂の自由についてこの映画は触れていると思います。エマ・ストーンが、おしっこをもらす赤子状態から自我と性に目覚めた少女状態、さらに知性を獲得して有害な男性性に対峙する強い意志の者状態へと成長してゆくその様子を、見た目は全く変化しないまま大変リニアかつ自然に演じ切ってておりすげえなと思いました。映画ともども、オスカーに非常に近いところにいるのではないでしょうか。

 

あと、顔面が縫い目だらけのマッドサイエンティストを演じたウィレム・デフォーが醜怪な容貌のなかに複雑な人生観と愛情とを垣間見せる渋い演技です。アカデミー賞にノミネートするなら、主人公をかどわかした結果破滅するヤリチン弁護士を演じたマーク・ラファロよりこちらだったのではという気もします。

 

最近観た映画のメモ(2024年2月)

時間を作ってちまちま観ています。

 

 

レイジング・ブル』(1980)監督:マーティン・スコセッシ

 

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初見。「怒れる雄牛」の異名を持つ実在のボクサー、ジェイク・ラモッタの栄光とその内幕を、当時のイタリア系アメリカ人社会の裏表を絡めつつ描く伝記映画。主演のジェイクがロバート・デ・ニーロ、その弟がジョー・ペシで、マフィアも濃厚に絡んでくるため後の『グッドフェローズ』とか『カジノ』の原型を見る思いです。とはいえこの映画はマフィアではなく、ジェイク・ラモッタという良く言えば複雑な、悪く言えば人格破綻した人間にフォーカスしています。

 

このジェイクさん、打たれても打たれてもダウンしない強靭な肉体が武器ですが、一方で繊細というか細かいというか疑り深く、常に周囲の者を疑ったり勘ぐったりして揉め事を起こしまくるという一人いるだけで周囲がボロボロに疲弊してゆくタイプの困った御仁。弟のジョー・ペシや妻のキャシー・モリアーティは家族なので嫌々付き合ってますが積年の面倒事に疲れ果てていき気の毒度がマキシマムです。

 

一方本人のジェイクはそんな鬼めんどくさい性格ながら一本気で純情な面も持ち合わせており、マフィアに八百長をやらされ負けるとロッカールームで子供のように号泣したり、妻に暴力を振るったあとシュンと反省して仲直りをもちかけたりします。このように人間はそもそも多面的で筋の通らないのが本然で、良くも悪くもそこに人情、人間味があるのだとこの映画は語ります。友達の家で遊んでたらそこの父ちゃん母ちゃんが壮絶な夫婦喧嘩を始めたようないたたまれなさに全編満ちていて鑑賞にはカロリーを要しますが、そういう話でしか描けない人生の断面や滋味もあるのです。きっと。

 

デ・ニーロ・アプローチという言葉を生んだ役作りの徹底っぷり(体型の変遷をみよ!)も凄いし、引き締まったモノクロ映像で冷徹に悲喜劇を綴るスコセッシの語り口もよろしい。最後、コメディアンとして第二の人生を送るジェイクさんが、楽屋の鏡の前で独り言をつぶやき自分を鼓舞して本番に向かうくだりは後年の『ブギーナイツ』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』といった映画に影響を与えているとみた。たいへん面白かったです。

 

 

 

 

 

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オリエント急行殺人事件』(2017)監督:ケネス・ブラナー

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初見。なお原作と1975年の映画版は各3度ずつ履修済み。クリスティのあまりに有名な原作(とその結末)をいま映画化する意味ってなんだろうー、と公開時には思ってました。1975年版は完璧とまではいかずとも非常に満足度の高い映画化ですし。というわけでネトフリに来たのを観てみました。

 

 

現代的な撮影、美しい風景、今現在のオールスターキャスト競演という新味はありますが、内容的にはそれほど新しい要素はなく、人種問題に意識的に触れてもいますが特に本筋に絡むところではありませんね。古典化したクリスティの世界への現代的な入り口として、豪華キャストとオリエント急行の贅沢な競演を楽しみつつ、フーダニットの醍醐味を味わっていただきたい…ところですが、2時間を割るというコンパクトな尺が災いしたのか、その辺の書き込みが駆け足なので最後の種明かしが唐突になった感じは否めません。惜しいな。絵的には凝っていて、12人の容疑者が「最後の晩餐」よろしく長テーブルに並んで座っているなどの印象的なシーンはよかった。

 

 

キャスト面ですが、ジョニデなど豪華キャストの陰に隠れがちな感じでオリヴィア・コールマンが出てて、同じ年にオスカー獲ったのですがこのころはまだ扱いがすごく小さく気の毒。またデイジー・リドリーが出てて、ススススター・ウォーズのレイ!レイやないか!元気か!と親戚の娘さんに久しぶりに会ったような気持ちになれます。ケネス・ブラナーのポワロは、朝食へのこだわりとか変なヒゲでキャラを立てようとしてますが、それでもイケオジ感が隠しきれません。もちょっと三枚目でも良かったかもね。

 

 

 

 

 

 

最近観た映画のメモ(2024年1月 その2)

アラビアのロレンス』(1962)監督:デヴィッド・リーン(1/19)

 

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初見。名作オブ名作オブ名作とのことなのでお勉強のために鑑賞。オスマン帝国に支配されたアラブの民を解放すべく戦ったとされる、英国軍中尉のT.E.ロレンスの活躍と苦悩を描く超大作。はしばしに込められてるであろう政治的メッセージはその気になればどこまでも深読みできそうですが、舞台となる1910年代、そして映画制作当時ののアラブ情勢を知らないと理解が難しそう。なのでその辺はのちの宿題にするとして、まず注目したのはロレンスという一筋縄ではいかない人物の栄光と苦悩です。

 

この人は単なる正義漢でも鉄の信念の人ではなく、普通の人と英雄の間を行ったり来たりするような不安定な人物として描かれています。将軍や王様と堂々と渡り合って軍を牽引することもあれば、英雄に祭り上げられて舞い上がり情勢を見誤ることもある。仲間の死や離反で自信を失うも、周囲の期待から強引に作戦を強行して泥沼にはまったりする。人の命を大切に思いながらも、一方で虐殺を避けきれず、自身も戦闘の中でなんだかハイになっちゃったりして相反する感情に自己を引き裂かれてしまう。最終的には英雄となったものの軍とアラブ王侯の両方の思惑から切り捨てられ失意のうちに砂漠を去ることになる。ラストに近づくにつれ、追い込まれていくロレンスの顔から飄々とした笑顔が失われていくのがつらい。ピーター・オトゥールがそのあたりを巧みに演じていて、砂漠の過酷な撮影もあったでしょうに、これでオスカー穫れなかったのはあまりに気の毒。

 

あとはなんつっても撮影が素晴らしく、広大な砂漠の地平線上にフッと塵のような黒点が現れ、それが次第に近づいてきて蜃気楼とともに人影をなす、という描写がそれはもう圧巻のひとこと。他にも朝日に輝く砂漠の遠景、夕日に輝く海辺といった美しい風景が素晴らしく、鑑賞の際は解像度の高いソースとデカい画面を強くおすすめしたい。

 

3時間半を超す長尺で、序曲に始まって休憩を挟むという鑑賞体験を久しぶりにしましたけど、タイパタイパとかまびすしい昨今にあっては大変贅沢で豊かな時間の使い方だなーと思いました。

 

 

モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(1975)監督:テリー・ジョーンズテリー・ギリアム(1/20)

 

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多分27年ぶりくらい二回目。初見時はあまりピンと来なかった覚えがあります。なんでだろう。泥酔してたからかな。ともかくいきなりこれを観るのではなく、テレビのモンティ・パイソンをある程度見て、メンバーの顔とか個性とかを把握した上でみるとおかしみがぐっと増す感じ。アーサー王と円卓の騎士、聖杯伝説のパロディなので原典を知らんとおかしさが分からないなんてことは全然なく、基本的にそこから材を取っただけであとは皮肉や屁理屈やギャップやビジュアルで笑かすパイソン節が炸裂しているので身構えなくてもOK。そもそもアーサー王自体が向こうじゃ義経伝説みたいなメジャーなお話ですからそもそもがそんな高尚でもなく、お文学やお歴史のお知識がないと門前払いされるもんでもないのです。たぶん。

 

低予算のため同じ役者が何度も出てきたり、さっき出てきた城が名前を変えてしれっと出てきたり、馬を借りる金もないのでお椀をパカパカさせる人がついてくる、といった開き直りのなか、監督のテリー・ジョーンズがガチの歴史学者なので衣装の考証だけは映画史上最も史実にちかい、という狙ってないギャグも発動しています。あまり肩肘張らずに気楽に見てニヤニヤするのが吉。あとは山田康雄とか納谷悟朗とかそうそうたるメンバーが出てる日本語吹き替え版で観たかったなあ。

 

 

ガメラ2 レギオン襲来』(1996)監督:金子修介(1/20)

 

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28年ぶり二回目。これは別途エントリ立てて詳細に書く予定。

 

 

 

カリートの道』(1993)監督:ブライアン・デ・パルマ(1/24)

 

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およそ30年ぶり2回目。初回は就活中に遠征先の道頓堀の劇場で観た思ひ出。ムショ帰りのカリートは裏社会の伝説ガイでしたが、カタギになって生きるぜと人生設計を立てて出所したところ、さっそく昔の仲間が寄ってきてじわじわと泥沼にはまりこんでいくのであった、という話。ここに昔の恋人との焼けぼっくいに火がファイヤー式ロマンスが絡み、メロドラマ版『スカーフェイスみたいになっていきます。

 

デ・パルマはもうノリノリ。手持ちカメラの長回しや抱き合う二人の周りをカメラがぐるぐる回るショットなど得意技を惜しみなく連発。語り口もよどみなく、サスペンスも盛り上がり絶好調。アル・パチーノが凄みと純情の二面性を持った中年の魅力を全方位に発射しつつ、その親友で実は悪徳弁護士のショーン・ペンコカインキメキメの暴走キャラで強烈な印象を残します。ジョン・レグイザモヴィゴ・モーテンセンといった今や名優の方々がチンピラ役で出ているのも味わい深い。そして、儚げなラストシーンの映像とそれにかぶる「ユー・アー・ソー・ビューティフル」のジョー・コッカーの哀切極まりないシャウト!泣かせます。デ・パルマ後半のフィルモグラフィにおいては一、二を争う傑作ではないでしょうか。

 

 

 

最近観た映画のメモ(2024年1月)

オズの魔法使』(1939)監督:ヴィクター・フレミング(1/11)

 

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初見。名作との誉れ高いのでお勉強のために鑑賞。うわぁ…。これはなんというか凄い。なんでしょうこのキャンプな雰囲気は。カラー映画最初期のこってりとした色味、それを強調する極彩色の美術や衣装、異形のキャラクターたち。アナログなれど工夫をこらした特撮。ドラッギーな幻覚スレスレの世界です。特に主人公のドロシーがケシ畑を走り回ったあとおネムになってしまう辺りはかなりキワドイのでは…?というような勘ぐりは2024年の今だから出てくる感想であって、制作当時は直球のファンタジー大作であったはず。にしてもこの毒々しさはどうですか。キャンディーみたいで美味しそうとも言えますが食べたらお腹痛くなるか気持ちよくなるかのどっちかでしょう。

 

原作の小説ともども、アメリカ文化の源流の一つとしてポップカルチャーのあらゆるところに引用されている、というのがこの映画をみるとよく判ります。既視感のあるフレーズ、キャラクターがこれでもかと出てくる。顔がバスクリン色の魔女、ある種のデウスエクスマキナである「正しい魔女」、黄色いレンガ道、靴の踵を三度鳴らす、おうちが一番、などなど。ああ、あれの元ネタはこれだったのか〜と腑に落ちること多し。引用先の作品では、日本人には少々唐突に思えるようなことでも(例えば『ワイルド・アット・ハート』の最後に脈絡なく出てくる魔女とか)、向こうの人からは「ああ、あれねw」とお馴染みだったりするのでしょう。そういった理解の一助、教養として観ておいて損はないと思います。ただしこんにちの目から見て、映画として面白いかどうかはまた別な話。それでもカカシ、ブリキ、ライオンの3無いトリオ(特殊メイクがこの時代にしてはうまく出来てる!)が醸し出すおかしみは今観ても十分面白いですね。

 

 

 

 

トーク・トゥ・ミー』(2022)監督:ダニー&マイケル・フィリッポウ(1/14)

 

 

現在公開中。SNSで流行している「90秒憑依チャレンジ」に挑戦した女子高校生のミア。本物の死体の手を封入した手のオブジェを依り代に、呼び寄せた霊を体に入らせてその感覚を楽しむというタチの悪い遊びです。その高揚感に病みつきになった彼女は親友の弟にもチャレンジさせたところ、呼び寄せてしまったのは3年前に死んだ自分の母でした。どうすんの。というホラー映画。

 

監督(双子の兄弟だそうです)が元々有名YouTuberだったということで、ついにその界隈から映画監督が出る時代になったのか〜と変な感慨が漏れつつ、映画そのものはガタついたところもなくしっかりした作りで、若者のどうしようもないウェーイ感とその裏にある孤独感をうまくすくい取っています。新しいのが降霊術を酒やドラッグと同じハイになる手段として扱っていることで、さらに憑依されたときの奇行を逐一動画にとってSNSに晒しあげるなど、大人が眉をひそめることを何重にも平気でやっちゃうのが洋の東西を問わず昔から変わらない若者のウェーイ性。そうしたヤングの無軌道を発端にするホラーもまた連綿と作り続けられています。なんででしょうね。

 

そういう無茶に走るのは他者との繋がりが無いと不安な若者の心の表れでもあり、ウェーイしてないときはどの若者もありふれた普通の子だったりするわけで、良し悪しはともかくSNSが浮き彫りにしつつ加速させる同調圧力みたいなものもうっすら見えてきます。今の子もしんどいよね。

 

映画は、降霊後の後処理を失敗したことに端を発し、主人公のたちの身辺に怪異が起こり始めるあたりからホラー味が加速していきます。その陰に誰のものかわからない悪意が見え隠れし、真相がどうなってるのかというミステリ的な興味もあって、話がどこに転ぶかわからない面白さがあります。ちょっと判りづらい部分もあるものの、きれいに決まったオチもよろしい。続編も作るそうですけど、安易に風呂敷を広げないで堅実に誠実にやってほしいなと思いました。