カジノロワイヤルの手帖

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最近見た映画のメモ(2024年2月 その2)

観たい映画を全部観るには人生は短すぎやしませんか。どうですか。

 

 

 

駅馬車』(1939)監督;ジョン・フォード

 

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初見。お勉強のため鑑賞。恥ずかしながら初ジョン・フォード駅馬車とは今の乗合バスの馬車版です。アメリカの西部開拓時代、町と町とを繋いでいた駅馬車に乗り合わせた人々…飲んだくれの医者、町を追われた女、身重の中尉婦人、キザな賭博師、気弱なセールスマン、横柄な銀行家、そして保安官に御者。彼らはネイティヴ・アメリカンの襲撃を恐れながら町を出発しますが、途中から脱獄囚(ジョン・ウェイン)が乗り込んできます。様々な人間模様が交錯する小さな駅馬車は果たして無事目的地にたどり着けるのであろうか、というお話。

 

目的地にむけて危険な地を通り抜ける、というシンプルな筋立てですが、狭い駅馬車内が社会の縮図になっていて、前半はその人間模様が描かれ、簡潔ながらも適格な描写でキャラの彫り込みがなされております。対立やロマンスや出産といった出来事でそれが深められていく過程がうまい。また、道中、進むか戻るかを議論や多数決で民主的に決めているあたりが実にアメリカっぽいですね。『ポセイドン・アドベンチャー』みたいな後世の名作のひな形をみる気がします。

 

後半、アパッチの皆様がオホオホ言いながら襲ってくるわけで、ネイティヴ・アメリカンを問答無用の悪役に据えているあたりは今の目で見ると大変居心地がバッドなのですが、まあこういう歴史観が一般的だった頃の映画ですね。この襲撃シーンのアクションがすごく、疾走する駅馬車に馬を並走させながら飛び移ったり、そこから落馬して馬に踏まれながら車の下をくぐったり、御者台から馬に飛び移って背中を飛び石にしながら先頭の馬に乗ったりと、残機がいくつあっても足りないレベルの危険なアクションが連発され、昔の西部劇も一時期の香港映画みたいだったのだなあ、と感無量です。

 

ここのアクションがあまりに凄いため、このあとジョン・ウェインが町で宿敵と相まみえる下りが蛇足にすら見えてしまうのが痛し痒しですが、明快なストーリーに豪快なアクション、丁寧に描きこまれた人間模様、という充実した娯楽映画でした。名作と言われるのもうなずけます。

 

 

 

雨に唄えば』(1952)監督:ジーン・ケリースタンリー・ドーネン

 

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初見。タイトル曲と雨のなかのダンスシーンがあまりに有名なミュージカル映画ですが、意外とそれ以外の点は知らなくて、これもお勉強として履修。まったく勉強不足にもホドってものが…。タイトル曲も含めて、既存の曲をありあわせて作ったミュージカルだけあって、内容的には気楽に観られるライトなコメディで、サイレントからトーキーへの過渡期の、ハリウッドの内幕を描いた一種のバックステージものです。トーキー黎明期の録音の試行錯誤とか(このへんは『ようこそ映画音響の世界へ』でも取り上げられてましたね)、発声に苦労する映画俳優(それまでは喋る必要がなかったですからね)とか、映画音響史的に興味深いシーンがいくつか。

 

しかしそういった部分を圧倒するミュージカル部分の凄さ!顔が油粘土に入れ歯を挿したみたいな質感ジーン・ケリーですが、身体のキレは凄まじく、タップダンスを多用した激しい振り付けを完璧にこなし、相方のドナルド・オコナーも壁の駆けのぼりなどの曲芸に時折みせる顔芸でこれまた完璧。二人が並んでズダダダダダと見事にシンクロしながらみせるタップなどはまさに圧巻。これはすごい。昔のハリウッドのミュージカルを舐めてました。全然現代にも通用するじゃないですか。すみませんでした。

 

思いつきを次々投入したような構成と、脚本家が現場で書いたみたいなザッカケな話ではあるんですが、一つ一つのパフォーマンスが異常に高レベルで次から次へと出てきますから、そんなことは観ててもうどうでも良くなりましたね。例の雨のシーンも、ウキウキする曲と完璧な振り付けと計算されたカメラワークで恋の高揚感が見事に表現されています。みていて思わず笑顔になる幸福感に満ちた一本です。必見。

 

 

 

 

『哀れなるものたち』(2023)監督:ヨルゴス・ランティモス

 

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現在公開中。マッドサイエンティストが身投げした妊婦の死体を拾い、胎児の脳を母親に移植。大人の身体を獲得した赤ん坊は成長して冒険の旅にでるのでした。というブラックかつ狂った幻想譚。凄いのは「冒険」のなかに性行為をバッチリ含んでいる点でして、そのものズバリな性描写があちこちに炸裂しまくっておりますが、扱いがあっけらかんとしているため猥褻な感じはまるでなくむしろ滑稽ですらあり、さらに美しい撮影と美術で描かれているため観ていてこれはいったいどういう気持で見てればいいのか混乱さえ覚えます。無粋な修正が入ってないのは大変よろしいですね。

 

身体は大人、頭は子供という逆コナン君状態の主人公は人間が根源的に持つ冒険心、好奇心を燃料に冒険の旅を続けていきます。初めは言い寄ってくる大人におもちゃにされたり騙されたりするので大変な苦難の道のように思えますが、急速に発達する知性によって彼女はあらゆる体験を冷静に分析する客観性と窮地を切り抜けるための合理性を獲得し、一人の人間としてめざましく成長。自分の自由を奪おうとするあらゆるものにNoを突きつけるのでした。それゆえ描写や行為やセリフのきわどさ、不道徳さにもかからわずこの映画は清々しい後味すらあります。

 

女性であるがためにある種の人間の支配下に押し込められ自由を奪われることについてこの映画は明確にNoを宣言しており、そういった意味では女性解放映画であるとも言えますが、もっと根源的な、性別を問わない魂の自由についてこの映画は触れていると思います。エマ・ストーンが、おしっこをもらす赤子状態から自我と性に目覚めた少女状態、さらに知性を獲得して有害な男性性に対峙する強い意志の者状態へと成長してゆくその様子を、見た目は全く変化しないまま大変リニアかつ自然に演じ切ってておりすげえなと思いました。映画ともども、オスカーに非常に近いところにいるのではないでしょうか。

 

あと、顔面が縫い目だらけのマッドサイエンティストを演じたウィレム・デフォーが醜怪な容貌のなかに複雑な人生観と愛情とを垣間見せる渋い演技です。アカデミー賞にノミネートするなら、主人公をかどわかした結果破滅するヤリチン弁護士を演じたマーク・ラファロよりこちらだったのではという気もします。